人生の意味とは 第2弾
「人生の意味とは」第2弾です。前回は、悩みすぎて半分鬱になって死を身近に感じたというところまででした。
今日はその続きです。
死を身近に感じ、じゃあそもそもいつでも死ねてしまう存在のこの自分が生きてる意味ってなんだろう、人間が生きてる意味ってなんだろうと思ったわけです。
そこで自分と人間が生きてる意味を考えてみました。
まず自分という存在は、日本に1億人いる中の一人である。そしてその日本というのは広い世界や地球のほんの一部である。
その地球というのは広い太陽系の中の一部である。
その上には一生かかっても出れないと言われる銀河がある。でもその銀河も無数の銀河の中の1つでしかなくて、更にその銀河が集まって銀河群?銀河団がある、と。
当時知っている知識で考えるだけでも自分という存在なんてこの広すぎる世界からすれば全くいようがいまいが変わらないちっぽけな存在だということがわかりました。
人間という存在だってこの広すぎる宇宙からすれば存在してようがしてまいがどうだっていいわけです。宇宙がなくなるわけではないのです。
逆に地球からすれば人間なんていないほうがいいのかもしれないくらいです。
そこで「ああ、人間も自分も生きてる意味なんてないんだな〜」と感じました。これは別に悲観的ではなく客観的にです。
あえて生物学的に考えるなら、人間という生き物が存在している以上は少しでも種を存続させていくことが自分が生きてる意味ではあるなと。
確かにそれは大事なことだけども、じゃあ結婚して子供産んだらバイバイなのかと、そのためだけに生きればいいのかと。それは悲しすぎないかと思ったわけです。
実際のところは、生きてる意味なんてそういうことなのかもしれません。
でもそれだけが君たちの生きる意味だよと教えられたところで絶対に人間は生きていけないわけです。そんなの人間は認められないわけです。
そこで少し悩みました。自分が生きてる意味がどうしても見つからない。。
ですが何度目かのループで、「じゃあ自分で生きる意味作ればいいじゃん」という思考に行き着きました。
生きる意味について与えられたものはないけど、自分で生きる意味を作ればいいのでは、と。
いっそ開き直って、自分で「こういう人生を送りたい!」て考えれば希望を持って生きることができる気がしたのです。
じゃあ自分にとって生きる意味はなんだと考えたのが次です。
思いついたのは、自分の力で少しでも良いものを生み出して後世に残すこと。それは実体のあるものかもしれないし概念的な自分の考えを後世に残すことかもしれない。
要は自分が生み出したものが、自分が死んでも次の代に伝わって誰かにとって役に立ったり助けとなれば、それは十分自分が生きた意味、証になると思いました。
またどうせいつか死ぬなら、最後死ぬときに「ああ、いい人生だったな〜」と思える死に方をしたいなと思いました。
そして考えた理想の死に方は、多くの人に惜しまれながら死ぬこと。
そんな幸せな死に方はないですよね。あくまで僕の価値観ですが。
だから自分のことばかり考えて自己中心的に、利己的に生きてたら絶対最後孤独で、誰も惜しんでくれないのではないかと思ったりもしてます。
で、どうやったらいい人生だったな〜と思えるかを考えました。
まあでもそんなのは簡単で、幸せな人生を送ること。少しでも幸せになること。これしかないと思いました。
じゃあ自分にとっての幸せってなんだ。次に降りかかって来た難題です。
自分にとっての幸せ…
ゲームするのも楽しいし、食にはあまり興味ないし、コンサート行くのすごい楽しいし、遊ぶのも好きだし、テレビ観るもの好きだし…
でもこうやって死んでもいいかなーとか考えちゃうってことはこれまでの幸せってのは正直生きるに足る幸せではないよなーなんて考えたり。
この自分にとって1番の幸せっていうのに当時16歳だった自分はかなり悩みました。
わからない…
わからないけど、でも誰かの役に立って喜んでもらえる、感謝されるっていうのはめちゃくちゃ嬉しい気がする…
少しだけしっくりきました。
結果半信半疑ながら、自分にとっての1番の幸せは誰かの役に立って喜んでもらえること、感謝されることだと思うことにしました。
役に立つ、感謝されるためにはどうしたらいいか。
当時の考えではそれは「優しさ」でした。
そしてどうせなら最上級の優しい人間になりたい!と考え、導き出した最上級の優しさは、人の命を救うこと、でした。
優しさなんて正直どこまで善意でやってるかわからないし、利己的な考えのもと優しくする場合もありますよね。
でも人の命を救うというのは、例え偽善であろうがその事実には変えようのない価値があるわけで、優しさと呼べるかわかりませんが自分の中では最も良い行いであり、価値のあることでした。
まあ人の命を救うと言っても消防士や自衛隊になるわけではなく、なるべく不必要な死を少しでも減らすことをしていこうと考えました。言い換えれば平和な世の中です。
世界にはまだまだ飢餓や病気で苦しんでいる人たちが大勢いる。
でも世界中の食料を平等に分けたら全員が生きられるとも言われています。
そんな中でもう食べれないからと飯を捨ててしまう国もあるわけです。それを分け与えたら生きれる命があるのに。
そんなの絶対におかしいのではと思っています。
人の命を救うことで人口が増え結果として人類滅亡につながるみたいに考える人がいるかもしれないですが、生まれて来た人に罪はないわけです。死ななければならない意味はないわけです。
まあここは難しい問題なのですが。
だから僕は、世界中で苦しんでいる人たちに対して少しでも手を差し伸べたい、幸せを届けたい。そう思っています。
本当の意味での平和をいつか実現したいと思っています。
それはユニセフとかではなく、自分の手で。自分の目に焼き付けながら。
それこそが自分にとっての幸せであり、誰かの役に立つことであり、生きる意味なのだと。
そして死ぬときに自分のしたことが認められて惜しまれながら死ぬ、自分のこの考え方や生き方に感化されまた次の人が同じように本当の世界平和に向かって動いてくれる。
もしそんな風になれば十分自分の生きた意味はできると思いました。
そのような形で僕の瞑想は終わりました。
今は若干考えの変わった部分もありますが概ねこの時の考えが芯にはなっています。
この考えや経験が少しでも誰かの役に立てば嬉しいです。
それでは。
自分が生きている意味、人生とは何なのか、人は何のために生きているのかの疑問に対し出した答えパート①
16歳の時、自分が生きている理由、人生とは何なのかについて考えました。その時に考えたことは今も僕の行動指針となり、生きる意味となり、自分の価値観となっています。
今までこういったものは内に秘めていたのですが、やはりこういうことこそ発信していくべきだと思ったので、
今日は当時の自分が考えたことについてご紹介したいと思います。
なぜこんなこと考えたのか、まずはきっかけから話していきます。
※今日はおふざけ無しです。
自分が人生について考えるきっかけとなったのが、長年続けてきたサッカーを辞めたことでした。
詳しくいうと、高校1年の夏、サッカー部を辞めました。
しかし、その決断をするまでかなり悩みました。
サッカー選手になりたい夢、全国大会に出るために選んだ高校だったこともあり、簡単な決断ではありませんでした。
しかしそこで自分や周りに感じた絶望や理不尽な出来事、金銭的な問題等からサッカー部を辞めてしまおうかと考えていました。
そして結局悩み抜いた結果サッカー部を退部しました。
しかし一週間後、校内アナウンスで突然サッカー部の顧問の先生から呼ばれ、そこでサッカー部に戻って来ないかとの話を受けました。
その話を受けて、僕は答えが出せませんでした。
当然その話は嬉しかったです。僕が辞めた当時、周りで20人ほど他にも辞めていましたがそんな話を受けたのは自分だけだったこともあり、先生の想いに答えたい気持ちもすごくありましたが、どれだけ考えても悩んでも答えは出せませんでした。
すると、悩み過ぎた結果僕はだんだんと自問自答の深みにハマり、無気力になっていき半分鬱のような状態になっていきました。
真面目に通っていた学校も、遅刻は当たり前になり、遅刻しても何も感じなくなり、いつしか学校もサボるようになっていました。怒られても何も感じませんでした。不思議と罪悪感も全くありませんでした。
その日もいつものように学校をサボっていました。
床に寝転がりながら死人のようにじーっと固まっていた時にふと、「死って今まで遠いもののように感じてたけど、今息を止め続けたら死ぬんだよなー。ベランダから飛び降りたら死ぬんだよなー。」ということを考えました。
そこから一気に人生について考えることになるのですが、長くなりそうなので続きはまた次の投稿でご紹介します!
電子レンジが爆発した話
日本人なら誰もが昔から避難訓練というものを経験してきたと思います。でもそれが実際に役立った人は少ないのではないでしょうか。
自身も火事の経験はありませんが、一度だけ、ただ一度だけ避難訓練が活きたことがあります。
それが…と言いたいところですがすでにタイトルで言っちゃってますね。そうです電車レンジが爆発したんです。
これはまだ小学生の頃の話。(急変化する温度感)
その日僕は家で留守番をしていた。
朝母親から「これおやつに食べや、詳しいこと紙に書いておくから」とさつまいもがポツンとテーブルに置かれていたのを今でも覚えている。
のちにこのさつまいもが悲劇を起こすとは知らずに…
というか今考えたらおやつのチョイス笑
適当に「わかった〜」と返事をして留守番をしていたわけが、3時ごろになりちょうど小腹が空いてきた。
そこでなんか言っていたさつまいもでも食べるかーとなった。
紙を見てレンジで何分温めるかまでしっかりと書かれたその情報を疑うこともなく、さつまいもを電子レンジにぶち込み、確か3分とかで温めスタートを押した。
当然3分間ずっと電車レンジの前で仁王立ちするほど金剛力士像なわけではなく、違う部屋でパソコンをいじることにした。
パソコンをいじっていて少ししたら電子レンジの方から音が!
「あれ、ちょっと3分早くない?」というのと「タイマーこんな音だったっけ?」という2つの疑問を抱えたまま電子レンジのあるキッチンに向かうことに…
キッチンに着くと、なぜか電子レンジが勝手に開いていた。開けていない電子レンジが開いているその感覚は、恐怖でしかなかった。
しかも中からバチバチ音がしている…
嫌な予感しかしない…
勇気を振り絞りおそるおそる近づいてみる…
そして僕の目に飛び込んだのは「さつまいもが燃えている」という恐ろしい状況。
とりあえず意味がわからなかった。わからなかったけどとりあえず本能で水をかけた。
すると水は消えた。ほっとした。
しかしほっとしたのもつかの間、さつまいもから勢いよく煙が噴き出してきた。
あっと言う間に家中煙だらけに。
死を覚悟した。
しかし覚悟した僕の脳裏をよぎったのは楽しかった友達との思い出でも気になっていたあの子の顔でもなく避難訓練の記憶だった。
それから僕は避難訓練の経験を思い出し、姿勢をなるべく低くし、ハンカチを口元にあて、ほふく前進をしながら家中全ての窓を開けることにした。
それが終わったらつぎは全ての換気扇をつける。
極め付けは扇風機で煙を外に出すアシストをさせた。自分自身もうちわで補佐をする。
だんだんと部屋の視界がひらけてくる…
どんどん外に出て行く煙…
この時何が怖かったかって、ご近所さんに通報されないか。家族にこの事実がバレないか。だった。
結局部屋は元どおりになった。気がした。ほっとした。
夕方家族が帰ってきて、「なんか焦げ臭くね?」と言われた。
死にたくなった。
ブログ更新できませんでした
お久しぶです。
ほとんどの人がブログを始めて1ヶ月も続かないと言われ「ふっ、何をこざかしい」と思っていましたがびっくりするくらいその通りになりましたね。
いやだって、スマホで文字うつの本当に面倒なんだもん。なんで指10本あるのに2本だけしか使えないの!残り8本スマホ支えるだけとか!組織図見直した方がいいレベルで非効率だから!
とまあそんなことに文句を言っても仕方ないわけですが、最近思うのがやはり「余裕って大切」ってことなんですよ。
そんなことでキレる?って人とかイライラしてる人、喧嘩してる人ってそこら中にいますよね。
そんな人たちに共通して言えることって多分「余裕がない」ということなんですよね。
僕もストレスが溜まって余裕がない時、あれ俺こんなことでイライラしてる。すごい短気になってる。と感じたことがあります。
実際に顔や表情、態度に出すわけではないですが、人間余裕がないとダメになってしまうなと感じた出来事でした。
そして「余裕が大事」と同時に思うのが「人間そんな強くない」ということ。
どんな人でも簡単に壊れるし、感情や欲望に負けてしまうものなんです。どんな人でも。
だから誰だって失敗するし正しくないことをしてしまう可能性だって十分あり得るのです。
そんな人は決まって余裕がなかったり、誰からも認められていないと感じていたり、誰からも見てもらえていないと感じたり、寂しい、憎い、苦しい等の何かを抱えていたりします。
だから何か間違ったことをしてしまった人に対して、その事実だけを責めたところでなんの根本的解決にはならないのです。
その人が抱える本質的な問題を解決しない限り、問題はいつまで経っても繰り返すでしょう。
という全くこんなこと書くつもりなかったのに急に変なスイッチ入ってしまったやーつ。
すごくラフな感じで書こうと思ってたのに。
ハイ終わり!!(唐突)
仕事における情熱は料理における火
実は物事の共通点を探すのが好きだったりするので、こんなものを考えてみました。
料理の火と仕事の情熱の共通点
火 :どんなにいい包丁、まな板などの環境が揃っていていい食材を用意した一流の職人がいても料理の料理の良し悪しを決めるのは結局火
情熱:どんなに素晴らしい環境が揃っていて優秀なメンバーが集まっていても、情熱がなければ仕事は成功しない
火 :火力が強すぎても熱が伝わり過ぎて焦げるし、火力が弱すぎても熱が伝わらない
情熱:無理に頑張り過ぎてもきっと空回りするし、情熱がなさ過ぎても上手くいかない
火 :火を使うと同時に出るガスは換気する必要がある
情熱:仕事をすると同時に出るストレスは発散する必要がある
火 :火を使わなくても作れる美味しい料理は沢山あるが、火を使うことで料理の美味しさが何倍にも上がることも沢山ある
情熱:情熱を注がなくてもできる仕事は沢山あるが、情熱を注ぐことで仕事の質が何倍にも上がることは沢山ある(雑にするから雑用、みたいなものですね)
火 :食べれないものでも火を通すことで食べれるようになる
情熱:もうだめだと諦めそうになった仕事でも、情熱があればなんとかなる
結果
火 :料理に不可欠
情熱:仕事に不可欠
ああ…今日なんもしなかったなという日について
たまにある一日ごろごろして何もしなかった日。
あるある、と共感してくださる方も多いのではないでしょうか。
そして1日の終わりになって罪悪感と後悔が…
ありますよね(笑)
ただこれに対して最近思うのが、きっとストレスが溜まっていたからなんだな、ということ。
新しい何かに触れる、見る、人と喋る、外に出て何かをする、そのどれもが人にとって良くも悪くも刺激=ストレスなんですよね。
普通に生活していたらストレスのかからないことなんてあり得ないんです。
だからストレスが溜まってきてこれ以上ストレスを増やしたくない、と思った身体が本能的にストレスを避けようとしてるんじゃないかなと思います。
だから何も自分を責める必要なんてない。本能なんですから。
と、考えたらどうしようもない一日も必然で、必要な一日だったと考えられませんか?
酔っ払いの戯言
やりたいことなんてそんなすぐに見つからなくて当たり前なんだなって思いました。
エンジニアになりたい、とかプロサッカー選手になりたい、っていうのはなりたい自分の手段でしかなくて、そこがゴールや目的なわけではないんですよねきっと。
きっとこの職業に就いた結果、こうなりたい!という先があるはずで、僕たちが目指しているのはこうありたい自分とか、こういう生き方をしたいという部分。
例えば、人を幸せにしたい、そのために人を笑わせたいから芸人になる、とか、人に認められたいからクリエイターになる、とか。
だからまずはどうありたいかとかどんなときに嬉しい、幸せか感じるかを考える必要がきっとあるんだと思うのです。
そこからその手段としてどんなことを仕事としたいかが見えて来るのかなーと思います。
以上。