哲学者になりたい人

心のつぶやき。一応エンジニア兼絵本作家。

なぜ人を殺してはいけないのか

前回、自身に対して敬意を感じられず、存在を軽視されたり、雑に扱われたときに、人は怒りや憎しみを感じるという話をした。

 

こう考えてみると、なぜ人を殺めてはいけないのかがわかってくる。

 

「なぜ人を殺めてはいけないのか?」

 

この問いに対して、あなたはなんと答えるだろうか。

ここでは「当たり前のこと」「常識」「誰だってわかる」そんな無責任な言葉は通用しない。

 

もしかすると、

「誰にも生きる権利があり、その人の夢や希望を奪う権利はない」

こう答えたりするかもしれない。

 

だがある人はこう反論するしれない。

「人間だって動物や魚といった生物の命を奪って生きているではないか。日常的に彼らの生きる権利を奪い、生きながらえているくせに、どの口がそんなことをいうのか。」

 

これに対し家畜、養殖だから問題ないとでも言おうものなら、それこそ外道の極みと言われかねない。

 

「自分はベジタリアンで肉や魚は食べないから問題ない」

そんなことを言っても

「では植物や果物は生きていないのか。それは人間から見た目線であって、真実とは限らない。動けない、声を発せない、それだけで生きていないと判断するのは浅はかではないか。」

と返されるかもしれない。

 

では「人を殺してはいけない理由」に足るものはなにか。

少し考えてみた時に、

「自分がされて嫌なことは人にしてはいけない」

という考えがある。

これは単純でありながらいい答えだと、個人的には思う。

 

何事にも例外は存在するが、基本的にはこの言葉は正解に近い。

 

しかし、

「では死にたいと思っている、自殺したいと思ってる人は殺してもいいのか?」

こんな問いを投げかけられるかもしれない。

 

この問いに対する答えはNoである。

実際自身の周りにも、日常的に死にたいと感じている人がいる。その人が言っていたのは、

「自分で死ぬのはいいけど人に殺されるのは嫌」

ということである。

 

それがなぜか考えてみれば、つまるところ

「人は自分という存在を軽視されたり、雑に扱われることに対して怒りや反発を感じる」

からである。

 

人を殺める動機が快楽なのか怒りなのかはわらかないが、自分の欲を満たすために、人を殺めるという、相手の存在、命を軽視した行為。

生きるために不必要な殺生。

これを人が嫌だと感じるから、人を殺してはいけないのではないだろうか。

 

人を殺してはいけない理由に、正義も悪も、善悪も関係なく、本質的にはこういう理由なのである。