子育て支援塾とかどうかな
何か起業するなら親を教育する、子育て支援的なビジネスやりたい。
ふとそう思った。
どんなことに意識して子育てをしなければいけないか、を伝える塾のようなイメージ。
なぜこのビジネスが必要かというと、子育ては子供にとって一生を左右するほど重要なことだから。
子供の人生が決まると言っても過言ではない。
家庭環境や子育ての仕方によって脳が縮小したり、自信の持てない人間になったり、自制ができない人間に育ったりと、本当に子育ては大事である。
その子の幸せのためにも、世の中のためにも、意義あるビジネスになるはず。
ただ問題なのは、ビジネスというのは需要があって初めて成立するもの。
お金を出してまで欲しいと思わなければそのビジネスは成立しない。
そういう意味で、子供を持つことになった親達が、すでに子供を持った親達が、お金を出してまで子育てで重要なことを知りたいと感じるかという問題がある。
直接親にハッピーを届けているわけではないので。
あと教育が必要な親ほどそういうのに無関心だったりするのではないか。
う〜む意外と難しい…
人はどうしてマウントをとってしまうのか
「人は結局、誰かに認められないと生きていけない」
最近気づいたことです。
自分で自分を認められる、自己肯定感の高い人は自分の価値や評価を他者に求めたりしません。
自己肯定感の低い人ほどマウントをとったり、自慢話をしてしまい、他者に自分の価値や評価を委ね、認めてもらおうとします。
その結果、他者から煙たがられ人は集まってきません。
自分に自信がない、自己肯定感が低くてはいけない理由はここにあるのです。
どうせ誰かに認められないと生きていけないなら、他人に委ねず自分のことは自分で認めてあげる。これが大事なのだと思います。
実はこの考え方って「国」にも言えることだったりします。
テレビなどを見ていればわかりますが、日本人は海外の反応を異常に気にしますよね。
具体的にいうと、日本や日本人称賛しているものや日本LOVE!といったものが大好きです。
これがなぜなのかというと、先ほどの話に戻りますが、日本人というアイデンティティに対する自己肯定感の低さです。
日本人が自分達で自分たちの国を認めてあげられないので、海外にそれを頼ろうとするのです。
個人の話に戻りますが、じゃあどうやったら自己肯定感をあげられるのかというと、一つセルフハグというのが効くようです。
リラックスした環境で、自分で自分を抱きしめてあげる。
そして「いつも頑張ってるね。偉いね。」と自分に伝える。
それを繰り返すことで少しずつ自己肯定感を高められるようです。
とここまで偉そうに言っていますが、あくまで個人的な意見なのでご参考程度に。
タイピングは家庭内の縮図である
家庭内での母親の大変さって、なんだかタイピングの時の指に現れてるなと思った話。
指って家族で例えることができますが、
親指は、「お父さん指」
人差し指は、「お母さん指」
中指は、「お兄さん指」
薬指は、「お姉さん指」
小指が、「赤ちゃん指」
となりますよね。
で、タイピングの正しい指の位置としては、
人差し指をFとJに置いて、バランスよく指を使ってタイピングができるようにするわけです。
でもよく見てみると、人差し指だけカバーする範囲が広いんですよ。なので当然人差し指(お母さん指)だけめっちゃ動いてて負担が大きい。
そしてそして、親指(お父さん指)って実は何もしてない。ほとんどタイピングで使わない指。
これってなんか家庭内で家事に奔走しているお母さんと、何もせずただ眺めてるお父さんみたいだなと思いました。
これ絵本にできそうだな。
なぜ人を殺してはいけないのか
前回、自身に対して敬意を感じられず、存在を軽視されたり、雑に扱われたときに、人は怒りや憎しみを感じるという話をした。
こう考えてみると、なぜ人を殺めてはいけないのかがわかってくる。
「なぜ人を殺めてはいけないのか?」
この問いに対して、あなたはなんと答えるだろうか。
ここでは「当たり前のこと」「常識」「誰だってわかる」そんな無責任な言葉は通用しない。
もしかすると、
「誰にも生きる権利があり、その人の夢や希望を奪う権利はない」
こう答えたりするかもしれない。
だがある人はこう反論するしれない。
「人間だって動物や魚といった生物の命を奪って生きているではないか。日常的に彼らの生きる権利を奪い、生きながらえているくせに、どの口がそんなことをいうのか。」
これに対し家畜、養殖だから問題ないとでも言おうものなら、それこそ外道の極みと言われかねない。
「自分はベジタリアンで肉や魚は食べないから問題ない」
そんなことを言っても
「では植物や果物は生きていないのか。それは人間から見た目線であって、真実とは限らない。動けない、声を発せない、それだけで生きていないと判断するのは浅はかではないか。」
と返されるかもしれない。
では「人を殺してはいけない理由」に足るものはなにか。
少し考えてみた時に、
「自分がされて嫌なことは人にしてはいけない」
という考えがある。
これは単純でありながらいい答えだと、個人的には思う。
何事にも例外は存在するが、基本的にはこの言葉は正解に近い。
しかし、
「では死にたいと思っている、自殺したいと思ってる人は殺してもいいのか?」
こんな問いを投げかけられるかもしれない。
この問いに対する答えはNoである。
実際自身の周りにも、日常的に死にたいと感じている人がいる。その人が言っていたのは、
「自分で死ぬのはいいけど人に殺されるのは嫌」
ということである。
それがなぜか考えてみれば、つまるところ
「人は自分という存在を軽視されたり、雑に扱われることに対して怒りや反発を感じる」
からである。
人を殺める動機が快楽なのか怒りなのかはわらかないが、自分の欲を満たすために、人を殺めるという、相手の存在、命を軽視した行為。
生きるために不必要な殺生。
これを人が嫌だと感じるから、人を殺してはいけないのではないだろうか。
人を殺してはいけない理由に、正義も悪も、善悪も関係なく、本質的にはこういう理由なのである。
人は足を踏まれても怒りを感じない
人というのは結局のところ、
自分という存在を軽視されたり、雑に扱われたときに、怒りや憎しみを感じるのだと思う。
例えば人に足を踏まれたとき、踏まれたことに対して怒りを感じるのではない。足を踏んで謝られなかったとき、はじめて怒りを感じるのだ。
誰かが発信した意見に対してアドバイスや意見をするとき、まずは褒めて肯定してから、その後に自分の意見やアドバイスをするというテクニックがある。
これはつまり、最初から意見をいってしまうと相手は自分という存在を否定されていると感じてしまい、嫌な気持ちになるため素直に意見を聞くことができない。
先に肯定し、まずは相手に対して敬意を持っていることを明示することで、相手は素直に意見を聞くことができる。
この人を軽視してはいけない、雑に扱ってはいけないというのを、我々はマナーだったりモラルだったり、言葉を言い換えて言っているだけである。
例えば電車での電話やカップルがイチャイチャしているのを見てイラッとするのは、まさにこれである。
自分という存在を全く気にせずそこだけの世界に入る、これが許せないのだ。
これに気がつくと、いかに人に対して敬意を示すことが大事なのかがわかる。
人に敬意を示す、相手を雑に扱わない、これを意識するだけで今より少しは生きやすい世界になるかもしれない。
深い話をできる人がいないという悩み
昔からずっとモヤモヤしていること。
人間は何のために生きているのか
どう生きていくべきなのか
平和のために何ができるのか
どうしたらもっと世の中がよくなるのか
正義とは何か
悪とは何か
人類は持つべき共通の価値観とは何か
よりよい世の中のために何を気をつけて、どういう考え方をしていけばいいのか
こういったことを語り合える友人がいない。
大学に行けば出会えると思ってた。社会人になれば出会えると思ってた。
でも出会えなかった。
なので、ブログを通してそういうことを語り合える人と繋がれたらいいなと思っています。
なぜ世界は平和にならないのか
こないだの記事が急に伸びすぎてアクセス数のバグを疑っちゃいました。すみません。ありがとうございます。
ちょっとこないだの記事に補足をしたいと思って今回ブログを書きました。
つまるところ、僕は平和な世の中を目指しているわけですが、当然飢餓をなくす、インフラを整える、人の命を救う、それだけで平和な世の中になるとは思っていません。
僕が思う1番変わらないといけないのは人間です。
今僕が思う人間に必要なこと大きく分けて2つ。
1つは、ある程度共通の価値観を全人類が持つこと。
もう1つは、人間がどういう生き物かしっかりと「知る」ということです。
1つ目について。
これは、国同士での争いについてかなり重要だと思っています。例えば宗教観の自由。
信仰は自由であり、どちらが正義とかはない。信仰を強要もしてはいけない。
他にも人類は皆平等で上も下もない。例えば客も店員もお互いに敬意を持たないといけないという簡単なものも。人種差別なんてのはもちろん。
あと私利私欲のために動くのは良くないこと、真実をもみ消すのは絶対にやってはいけないこと、という考え方とかです。
一見、資本主義の日本においては自分の幸せのために尽力するのがいけないのかという意見もありそうですがそんなことを否定するためにいっているわけではありません。
これはだいぶディープな話になりますが、事実今僕たちが教えられている歴史は勝者の歴史です。勝者の都合のいいように書き換えられたものです。
他にも、時代を支配してきたトップの人は、自分の都合の悪いことは全てもみ消してきました。情報操作というのは簡単なのです。今も現在進行形でそれは行われています。
この世界は勝者が偉い、勝者全てなのです。
そういったことがまかり通る世の中である限り、永遠に世の中は平和にならないし、争いもなくならないわけです。信じている真実が違うのですから。
本当の意味で理解はしあえません。
常に真実こそが最も重要であり、例えそれが自国や自分、自分の仲間や家族の不利益になることであったとしても、真実を書き換えることはよくない。受け入れる必要があるのです。
人間である以上これは難しいところではありますが。。
でも全ての人が常に真実という1つの認識を持つ勇気を持たない限り、憎しみは消えません。
国際間の問題の多くはこの真実の隠蔽というのが関係していると、個人的には思っています。
ですので勝っても負けても真実は真実だよね、悪いことは悪いこととして受け入れて反省していこうという考えはとてもとても大事なのです。
もう1つ平和のために重要なのは人間について知るということ。
これは先ほどの話より少し身近な話になります。
例えばテレビで事件のニュースを見ることがあると思います。ストーカーとかいじめからの自殺とか殺人事件とか。
それを見て僕たちは「なんてひどいことするんだ」、「どうかしている」と結果に対しての批判をして終わります。要は感情論です。
僕の考えでは、例え世界中の紛争や争い、確執がなくなり平和な世界になったとしてもこういう事件は無くならないでしょう。そしてこういった問題が解決しない限りは平和とは呼べません。
なぜ無くならないか。それは「なぜこの事件が起きたか」「事件を起こさないためにどうすればいいか」を本気で考え、対策しようとしないからです。
よりルールを厳しくしたり、制限をかけたり、といったことはあるでしょう。
しかし肝心なのはそういうことではないのです。抑さえつけるだけではダメなのです。
ひどい殺人を犯した人がいる。ではその人を死刑にすればもう殺人は起きませんか?
ストーカーを捕まればもうストーカーは生まれませんか?
いいえ、絶対に次の犯罪が起きます。
いじめだって誰が教えたわけでもないのにかなりの確率で起きますよね。
そう、それは僕たちが人間だからです。
人間とはそんなに強い生き物ではないのです。
人は誰しも認められたいし一人では生きていけません。承認欲求というものがあるのです。
こういった人間が元々持っている部分が大きく関係して事件や問題は起きるのです。
そして寂しさや憎しみというのは必ず人を壊します。
誰も見てくれない、認めてくれない、寂しい、その先に行きつくのがストーカーであり、ストレス、怒りや承認欲求、憎しみの先にあるのが殺人なのではと自身は思っています。
もちろん何事にも例外はありますが。
いじめの話で言えば、集団心理というのが1つ理由としてあるでしょう。他にも承認欲求や優越感、安心感、自分の認めていないものは否定したい、といったところも関係あるでしょう。
何度も言いますが人間が元々持っている性質が原因で、いじめが起きるのです。
他で言えば、バカッターなんてのは承認欲求の塊です。目立ちたい、周りの仲間に認められたい。
そんな思いから定期的にそういう人たちが生まれます。
あと、電車内のトラブルなんていうのはストレスが原因だろうとおもっています。
実際自分もストレスがたまり余裕がない時は、普段であれば気にせず流せるものが気になったりちょっとしたことでイラッとしてしまいやすくなります。
もちろんそういう自分の性質に気づいているのでより一層気をつけてはいますが。
そう、この気付きによってより一層気をつけるというのが、とてもとても大事なことだと思っています!
人間とは承認欲求の生き物。だから人の自慢話もちゃんと聞いてあげよう。それでその人の承認欲求は満たされるんだから。とか大人数でいるときは集団心理で罪の意識が下がるからより一層いつもより周りに配慮したり人を傷つけてないか気にしないと。だったり、みんなが好きなものをあえて否定したくなる心理とかも気にしたり。
このように人間がどういう心理を持っていて、どういう生き物か、というのを知ることで身近な不幸は減らし犯罪についてもより建設的な話ができるのです。
動物の図鑑とかでどういう生き物か見るじゃないですか。どういう生き物だからどう接さないといけないかを調べるじゃないですか。
それと同じことです。人間がどういう生き物か知らないのにうまく付き合っていけるわけがないのです。
高度な知性があるとは言え、人間だって一種の生き物であり同じような部分も多く持ち合わせているのです。人間は完璧な生き物ではないのです。
自分たちがどういう生き物か、どういうことに気をつけないといけないか、それを事前に知っておくことが「抑止」になるのです。
まあでも多分僕が今言っている内容は、絶対にテレビなんかでは聞くことはないでしょう。かなり世の中的にはタブーなところです。
まあここまで偉そうなこと言ってきましたが、一応こういう考えを人に伝えたときに「お前人に言っといて自分ができてないじゃん」と言われないために色々と意識してはいます。
支離滅裂な文章だったかもしれませんがそんな感じで終わります。
では。